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連載インタビューvol.10
前篇 後篇
羽柴 多賀子(はしば たかこ)最近の「女の子がしたい習い事のベスト3」は「ピアノ」、「バレエ」そして「チア」だそうだ。いまでこそチアは生活の身近なところに存在する。しかし、それもここ数年の話で、本当の意味で社会的に認知されるまでの道のりは決して平坦ではなかった。そんな、日本における現在のチア文化の基礎を作り上げたのが羽柴多賀子さん。小柄な体躯と穏やかな笑顔。聞けば、高校生を筆頭に2人のお子さんのいるお母さんだそうだが、とてもそんな年齢には見えない。決して大げさな物言いではなく、彼女の存在自体がチアの魅力そのものを表現しているように思えた。創生期の様子や現在の活動まで。彼女の言葉にはチアそして教え子に対する「LOVE」が溢れていた。
 
Q.元々はバトンをしていたそうですね。

はい。高校が野球の強豪校でしたので、甲子園で応援したりしていました。高校卒業後はもっと本格的にバトンをしようと思い、ある有名スタジオに通い始めて、イベントにも出演したりしていました。
ちょうどその頃、日本にもチアリーダーやソングリーディングが入り始めました。それで、バトンの経験を買われて「学校でチアを指導して欲しい」とお話を頂きました。それが指導者としての第一歩でした。当時はバトンの知識をベースに教えつつ、私自身もチアについて勉強していた感じです。


Q.まだ当時は日本国内でチアの指導者はいなかった?

A.はっきりはわかりませんが、少なかったことは間違いないでしょうね。しかも当時は、日本国内では勉強をする場所も資料もありませんでしたのでアメリカのTVを録画したものや古いVTRを擦り切れるほど見て勉強しましたそうして試行錯誤しつつ、指導者の道を歩み始めました。

 
衝撃を受けた、「チア講習 in USA」
 
Q.そこからどのように普及活動を続けていったのですか?

A.指導者になって5~6年目に、長期で渡米する機会がありました。その時、「USAの講習がサンタバーバラであるから受けてみないか」と誘っていただいて、「これはチャンス!」と思い、『チア』、『ダンスドリル』、『ソングリーディング』の三つの講習を2週間ほど受けました。

Q.初めて触れた本場のチアの印象はいかがでしたか?

A.もう、目からうろこの連続でした!教えていただくことすべてが新鮮で、「本当のチアとは、こういうものだったのか」とようやく理解できたような気がしました。いまでこそ日本でも、“協力”や“励まし合い”、“尊敬”といったチアスピリットは浸透してきていますが、当時はまったくと言って良いほど知られていませんでしたし。「教育的な観点からもこんな素晴らしい競技であるならば、もっと普及させたい」という思いは、このときにより強くなりましたね。
また、講習会で知り合ったインストラクターも、素晴らしい方が大勢いたんです。その時に「わたしもUSAに所属している方たちのようなインストラクターになりたい!」と思ったことが、結果的に1989年のUSAジャパン立ち上げにつながっていきます。


Q.ゼロからのスタートだけに、労力は相当だったと思います。モチベーションの源は何だったのでしょうか?

A.高校生を指導していて、彼女たちが卒業の時期に差し掛かったとき、「やっとここまで覚えたのに、卒業後に続けていける場所がないのはあまりに寂しい」と思ったことが大きいですね。「ようやくチアの魅力に気付き始めた彼女たちに、もっとたくさんのことを教えてあげたい!もっと伸ばしてあげたい!ここから先のほうが、さらにたくさんの楽しみや感動が待っているのに……」という気持ちが強くあり、これを伝えていこうという決心がありました
 
失敗を恐れない
 
Q. 実際どのようにして普及させていったのですか?

A. まず、1990年にSILVER WINGSというクラブチームを結成しました。メンバーは、多い時でおよそ60人いました。クラブチームにふさわしい洗練されたカッコいいスタイルを確立させたかったので、毎年渡米して講習を受け、最新のスタイルを取り入れていました。ソングリーディングの大会に出場して優勝したことで、チームへの注目度は一気に上がりました。

Q. 当時はどんな指導者でしたか?

A. 相当厳しかったと思いますよ。気を抜けば容赦なく叱り飛ばしていましたから。
立ち上げから10年間は、とにかく「大会で勝利すること」を最大の目標に指導を続けました。「このチームを強くするために」とか、「日本のソングリーダー界は、このチームが牽引する」みたいな心意気が常にありました。常に一歩先を行くような、「日本の子たちでもここまで出来るのよ!」という思いを、本場アメリカにも伝えたかった。選曲も斬新でとがったものを採用し、振り付けも常に最先端でなければ気が済みませんでした。
いまは業界全体の裾野をひろげることに興味の矛先があるのでそこまで競技チアに取り組む気持ちは持てませんが、それはそれで、今から思えば幸せな時期だったのかもしれません。失敗を恐れずがむしゃらに動けたのは、私自身も指導者として若かったから出来たのでしょうね(笑)


Q. 指導者を育てることに本格的に力を入れ始めたのはいつ頃からでしょうか?

A. 活動を始めて4年経った、1994年頃からですね。初代の教え子の中から、「わたしもチアに関係する仕事がしたい」と言って来てくれる人材も現れ始めて、そこから指導者の育成が始まりました。そして当時、たまたま高校時代の恩師と話す機会があり、「自分の好きな世界をひろげていきたいのならば、ひとりでやろうとするのではなく後継者を育てなさい。種を撒くこともあなたの仕事でしょ」と言われたことも大きかったですね。
そうした言葉にも背中を押され、SILVER WINGSの指導は後輩に任せるようにし、私はチア文化の裾野をひろげる活動により専念しようと決めました。
   

(取材・文/会津泰成)
 
(2回目に続く)

羽柴 多賀子(はしば たかこ)
11月17日生。東京都出身。高校時代はバトン部で活躍。卒業後チアリーディングと出会い、本場米国で学ぶ。帰国後、高校や企業チーム等を指導しつつ、米国カリフォルニア州に本部を置くUSA(United Spirit Association)の日本支部のディレクターに就任、現在代表としてチア普及に尽力。1990年に自身で創設したソングリーディング&ダンスチーム「SILVER WINGS」ほか数々のトップレベルチームを指導。プレーヤーはもちろん、優秀な指導者も多数輩出している。
USA-Japan President 
http://www.usa-j.jp/jp/top.html
Jリーグ清水エスパルスチアリーダー『オレンジウェーブ』Director
http://www.s-pulse.co.jp/fan/orange_wave/
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